3月11日です。
ああ、また年月が経ってしまった。

あの日、皆さんは何をしていましたか?


わたしは横浜市の青葉区という、けっこうな田舎に住んでいて
2人の子供を育てながら週に3回以上奈良に通うという
無茶な生活をしていました。

でも、あの時は
奇跡的にみんながおうちの半径100mにいたんです。


あの日は、滅多にないほど予定がなくて
5月の海外出張に向けて、パスポートの更新に行っていました。

平日の午前中だったので、さして混雑もせず
11時ごろにタスク完了。
職場に電話して、特に緊急の用件がなければ自宅勤務することを伝え、
みなとみらいの大都会から、青葉区の緑豊かな自宅へ。

せっかく早く帰ったので、
普段なら土日にするまとめ買いをして、ムスメの幼稚園にお預かりなしの定刻13時にお迎えに行き
13時半ごろ帰宅。

お片づけして、ムスメは1階のリビングでお絵かき。
わたしは2階の自分の部屋で、さあて仕事するぞ〜
と思ったら。

来ました。
はじめは、ゆらゆらした感じで
そこからだんだん大きく揺れてきて。

プリンタを置いていたコロコロ付きのワゴンが部屋の端まで走って行くぐらいになったときには
必死で家具を抑えながら
「机の下に隠れて!頭を守って!」と叫んでいました。

揺れが収まって、まず考えたことは
ムスコをはやく連れ帰らなくちゃ!でした。

余震が来る前に家のま裏にある保育園へ駆けつけ。

なんと、地震発生から10分で、家族3人が勢ぞろいしたのでした。


我が家の地域は、幸いにも停電対象外の地区だった上に
偶然にもまとめ買いをしていたおかげで、
あのスーパー品切れ地獄に並ぶこともなく
普通に過ごすことができていました。


それでも気をつけたことがあります。
それは、生々しい映像を子供達に見せないように努めること。

わたしは、中学2年生のとき
阪神淡路大震災を経験しています。

我が家に被害はなかったものの
両親が大学教員ゆえに、地震発生すぐに2人とも出勤してしまいました。

わたしも学校にいったものの、
「京阪電車以外みんな止まってるから、今日は休みやで〜」と言われ
すごすご帰宅。

うちには誰もいない。
テレビをつけたら、高速道路が倒れている。
神戸が燃えている。
ああ、このあいだ英語の先生に会いに行った、きれいな街…

当然携帯もないので、うちにいることを両親に伝えなければ、
ここで死んだら誰も見つけてくれない。

父の職場に電話して
母の職場にも電話して
1階にいて潰れないように2階にいて
じっとテレビを観ていました。

その頃から、わたしは極度に「橋」を怖がるようになりました。

何度も何度も出てくるあの「割れた」高速道路。

もともと吊り橋なんかは得意じゃないですが
陸橋も螺旋階段も、足元が地面につかないものが怖い。
実は今でも怖いです。

だって、あの高速道路ですら、ばきっと割れるじゃないか…


だから、また地震が来たときに一番に思ったことは
「テレビはこどもに見せちゃいけない」
だったんです。

東日本大震災から6年経ったいま
うちのちびたちは幸いにも、恐ろしい映像をトラウマにすることなく生きています。

わたしには、
やっぱり忘れられない記憶です。

仙台で産婦人科をしていた友人は
どんなことがあっても生まれ続ける新しいいのちを守るために
現場から動くつもりはないと言いました。

それを聞いて、思いました。
いまのわたしには何もできないけれど
こどもたちを楽しませて、守り抜くことだけはできる。

いまは力が弱くて
この手で守れるのはうちの2人だけだけれど
どんなことがあってもこどもたちを笑顔にできる仕事を続けようと
そのとき決意しました。

だから、うちナースを始めたことは
亡くなった仙台の友人に対するわたしなりの返事でもあります。

わたしの両手でできる限りのことを、やりきるからね。